ある患者のストーリー

私たちの息子のお話です。


生まれる前のこと
生まれてから気管切開に至るお話の前に、生まれる前のことをお話します。
息子はお腹の中に来て20週のエコーでいくつか病気があることが分かりました。
その時分かっていたのは、尿管拡張と脊椎側湾症。その後羊水検査や遺伝子検査をしてそれらには問題ないことが判明しました。
生まれてみないと分からないことが多く、生まれてから見つかる病気によっては呼吸器をつけるような状態かもしれない。お母さんは仕事を続けられないかもしれない。
そういったお話を受けた記憶があります。

病気が分かったのが20週・・・。産むか諦めるかよく話し合って決めてください、そう言われ毎日泣いて過ごしたことを覚えています。
夫婦でもお互いの気持ちを上手く話すことさえも出来なくて、何をどう考えればいいのかさえ分からずに泣いて過ごしました。
産みたい気持ち、でも他にも病気があるんじゃないかという不安、この先自分たちの生活はどうなってしまうんだろうというという気持ち。自分たちが欲しくて欲しくてやっと授かった子どもなのに病気があるからって諦める・・・そんなことしていいのか・・・でも綺麗事じゃすまされない・・・そんな気持ちが渦を巻いていました。

産みたい、産もうと言って欲しい・・・という気持ち

産もうと言ってあげたいけど怖い・・・という気持ち

そんな気持ちがお互いあったと思います。

そんな時に、夫の母から電話がありました。
「産みたいんじゃない?」
「どんな姿だっていいじゃない。みんなで育てようよ。」
そう言ってくれました。
その言葉に背中を押される様に私たち夫婦は息子を産む決意をしたのです。

今振り返ってみると、この時に夫婦できちんと話し合えたこと、お互いの両親にお腹の息子の存在を応援してもらえたことは、私たち夫婦が息子を家族として迎え、そしてその後に気管切開という大きな決断をするにあたって大きな意味があったのだなと思います。
妊娠中に「障害も個性のひとつだなんて綺麗事だ」と言っていた夫は「気管切開は息子の一部だ。隠すなんてとんでもない」と変化しました。
外出時にもバンダナで隠すような事は絶対にしたくないといいます。「息子に隠すようなところは一つもないのだ」という夫の姿はとても誇らしく眩しいです。


誕生から生後1ヶ月
2012年12月★日。息子は誕生しました。
出生直後産声はほとんど聞こえず新生児仮死でした(今思えば咽頭狭窄でのどが細く息が上手く出来なかったんだなと分かるのですが・・・)。
出生前から分かっていた尿管拡張、脊椎側湾症の他にも、心臓、消化管などにも先天的な病気があることが分かり手術をしたりしました。
しかしまだ咽頭狭窄があることは分かっておらず、何か変だな・・・という不安だけが毎日募っていきました。

当時つけていた私の日記には

「産まれて3日目。ノドの奥に溜まる唾液は粘稠で量も多い。1時間毎に吸引してもらっているとのこと。飲み込めないという嚥下の問題があるのか、それとも気管の問題なのか・・・不安でたまらない。」

と書いてありました。

しっかりとした診断もつかないまま生後1ヶ月が経過しました。
声も小さく、唾液も多い。泣いただけでspo2が下がる。おしゃぶりを吸いたいのに吸わせると苦しくなってspo2が下がる・・・このような状態で生後1ヶ月くらいは何が原因なのかハッキリしないままでした。

どうやったら退院できるんだろう・・・果たして前に進んでいるのだろうか・・・そんな漠然とした不安ばかりがあったような気がします。


生後2ヶ月から気管切開まで
生後2ヶ月に入る頃に呼吸器科の先生がみてくださることになり、咽頭狭窄があることが分かりました。
やっぱりな・・・という悲しい気持ちはありましたが、大きくなれば解決できるという認識でした。

ノドの細くなっているところにairwayという管を鼻から通し空気が通る道をつけてあげるという方法がとられました。見た目には大変痛々しい感じですが、これをすれば家に帰れるんじゃないかという気持ちの方が強く、日々airwayの固定方法を看護師さんと試行錯誤し息子に合う方法を探していました。

しかし息子の場合、狭窄している部位が声帯に近いためairwayの入れる深さの調整が大変難しく断念せざるをえませんでした。

その次の方法は少しでも呼吸が楽に出来るように、体重が増えるようにということでN−CPAPという呼吸器をつけて鼻から空気を送ってあることで狭い咽頭にも空気を送り、空気の通り道を作ってあげるという方法がとられました。
その後体重も順調に増え、呼吸も楽になり夜も寝れるようになり、やはり息子には何らかの呼吸のサポートが必要だということになったのです。

しかし、この機械は家で使用することが出来ないため家で使用することができる機械に変更する必要が出てきました。

家で使用できるようにBipapという機会の装着に挑戦することにしました。

まだ体も顔も小さく既製品のマスクが合わなく装着することがとても大変だったり、マスクからは勢い良く空気が送り込まれているので本人が大泣きして気絶してしまったり徐脈になってしまったりしました。そんな姿を見ているのもとても辛かったのを覚えています。

Bipapも上手に装着出来るようになり、ああこれで家に帰れるかも・・・と思っていた矢先に息子の状態が急変しました。突然呼吸を止め、脈がどんどん下がってしまいました。そして、気管内挿管をして人工呼吸器管理となってしまったのです。
抜管を試みたりもしましたがやはり自分で呼吸することが難しいことが見てすぐに分かりました。

「気管切開はどうかな?」そう先生から提案された時は全力で拒否したことを覚えています。
今まで色んなことに挑戦して家に帰るために頑張ってきたのに気管切開になるなんて・・・絶対に嫌だと思いました。
産まれる前にどんな姿になっても受け入れるって決めたのに・・・でも気管切開は嫌でした。
でも、その一方で気管内挿管までしている状況から、今後、家に帰るためには気管切開しかない、ということも同時に思っていたように思います。

この時点で生後2ヶ月・・・病院に長期間入院していることで様々な発達が遅れてしまうんじゃないという気持ちや焦りもありました。
そして、気管切開を決断するまでの数日間、インターネットで「小児 気管切開」と何度検索したことか・・・生の声を聞きたかったんだと思います。
何をそこに探していたかは多分「気管切開して良かった」というコメントだったんだろうなと思います。

そして呼吸器科の先生が「食べるために、飲めるために、気管切開した方がいい」と言ってくださったことも私たち夫婦の背中をグンと前に押してくれました。
そうか、この子は気管切開したらもしかしたら私のおっぱいを吸えるかもしれないのか・・・そんなことが出来たらいいな。おっぱいは無理でも哺乳瓶なら出来るかもしれないな・・・。家で家族そろって暮らせるかもしれないのか・・・。と自然と「気管切開したら出来るようになること」が私たち夫婦の中で広がっていった気がします。

息子の状態が急変してから、新生児科主治医の先生、新生児科医長の先生、NICUのピライマリーナース、NICU師長さん、耳鼻科の先生、呼吸器科の先生、麻酔科医師、短い時間の中で私たち夫婦が納得するまで話し合いをしてくれました。
産まれてから咽頭狭窄があることが分かりNICUで過ごしてきた2ヶ月の間に先生方や看護師さんたちに私たち夫婦の気持ちを聞いてもらえた事、率直にいい事も悪い事も話してくださった先生方や看護師さんたちとの間にあった信頼感は気管切開をする上でとても重要だったと思っています。
また、夫婦の間でも率直な意見交換が出来た事も大きかったと思います。

私の中では気管切開した方がいいという気持ちが大きくなっていきましたが、夫は気管切開した息子を受け入れてくれるだろうか・・・気管切開して家に帰ってケアするのは自分だけになったら大変だな・・・そんな言葉にしにくい気持ちも夫に話ました。

当時のことを夫はこう振り返ります・・・今、思い起こせば、当時の気持ちは理屈ではなかったと思います。

「幾つか病気を持った我が子にこれ以上の負担を負わせたくないという気持ち」

「自分たちの息子は気管切開するほど重症度は高くないと思いたい気持ち」

様々な気持ちが入り交じって本当に混沌としていました。

ただ、我が子のことなのです。
誰かに説明されて、すぐに納得する事など出来ないのです。

そして残酷ですが、何が正解かは誰もわからないのです。納得いくところまで話合って、時には感情的に気持ちをぶつけ合って、決めれば良いというのが私の考えです(こんなこといったら、先生や看護師さんに怒られちゃいますかね…)
そして「家に帰ること」が息子のために必要だということを夫婦そして先生方含めて同じ気持ちになれたので気管切開を決断しました。


気管切開してから
気管切開をしてから2週後にはNICUから一般病棟に移り、家での物品の準備や帰ってからのシュミレーションをしたり、退院後の私たちの生活支えてくれるために訪問看護師さんを調整してもらったりと様々な退院準備を行い、一般病棟にきてから1ヶ月半で退院することが出来ました。

退院したのは生後5ヶ月の時でした。
退院した時の息子は、夜間のみ人工呼吸器を装着し昼間は人工鼻という状態でした。
栄養は1日に7回の鼻の管から母乳の注入。首は座ってきたものの寝返りはようやくはじまったかな、という状態でした。
私も搾乳を続けており、吸引、沐浴、注入、自分の食事、自分のお風呂、様々な家事の合間に搾乳をしていました。
小さい頃は特に吸引の頻度が多く大変だったなと思います。

その後、人工呼吸器は生後10ヶ月で離脱し、夜間は酸素を人工鼻から流すだけとなりました。
人工呼吸器を装着している時は、夜間寝返りを打った時に呼吸器のジャバラが外れてしまうこともよくあり母の睡眠が中断してしまうこともありました。
人工鼻になってからは人工鼻がとれてカニューレを枕か何かで塞いでしまわないかと不安で今も寝るときにSPO2モニターを装着しています。

栄養面では、生後6ヶ月からは夢にまでみた直母を行い、その後ボトル授乳も出来るようになり、生後9ヶ月頃から離乳食を開始することが出来ました。
飲み込むことや、噛むこと、モグモグすることはまだ他のお子さんに比べると下手ですが、只今1歳7ヶ月、1日3回の食事でミルクも卒業するまで成長することができました。
食べる事、飲む事を出来るようにするために気管切開したと言っても大げさではありません。

運動面では、寝返りが生後7ヶ月、お座りが生後10ヶ月、つかまり立ちが生後11ヶ月、そしてひとり歩きが1歳3ヶ月で出来るようになりました。
自分でカニューレを摘んだりする仕草もみられてヒヤっとすることもありますが今のところカニューレが家で抜ける事件はおきていません。
これから親のいうことが理解できる年齢になってくるので、「抜いてはだめ。これはあなたにとって必要なものなのよ」としっかり教えていくつもりです。

また、発語はまだまだ乏しく「あー」しか言えませんが、スピーチバルブを装着して声を出す練習をしています。
夏からは地域の療育センターにも週1回通い、初めて自分と同い年の子どもたちとのふれあいも始まりました。プールに潜ることは出来ないけれど、一緒にプールに入って水遊びも出来るようになりました。

只今、1歳7ヶ月。
積み木を倒す事が大好き、バナナとヨーグルトを食べることが大好き、お父さんの高い高いが大好き、階段を勝手に登ってはこちらをヒヤヒヤさせる毎日。
こんな毎日が送れるのは、辛かったけど「気管切開」を決断できたからだと思います。

親なら子どもに健康でいてほしい、体に傷なんてつけたくない、そう思うのは当たり前だと思うのです。
ケアや処置があり気管切開していることで不便なことはあります。
しかし、「気管切開」をしたことで得たものも非常に多かったことも事実です。
気管切開している子供も「歩く」「遊ぶ」「食べる」「しゃべる」という沢山のことをすることが出来ます。気管切開している子どもは決して可哀想な存在ではないと思うのです。

気管切開の決断を迫られた時インターネットの情報を探しまくった私たち。

今もどこかの病院で悩んでいるお母さん、お父さんがいるのかな。そうだとしたら、この息子の情報が少しでも役に立てたら嬉しいです。